基本情報
宗藤 広大(ニックネーム こうだい)
1992年9月4日生まれ(30歳)
<実績>
・TOEICテスト990点 取得経験あり
・海外学部留学経験あり(1年)
・インフルエンサー約200名のマネジメント経験あり
・Instagramアフィリエイト 20名以上が月収100万円のマネタイズを達成
・YouTubeタイアップ動画 制作ディレクション経験30件以上あり
・Saas系ツール プロモーションで4,000万円以上の売上を達成
・バスケットボール地区選抜 出場経験あり
・ピアノ講師資格あり
なんだコイツ?
こうだいってコイツどんなやつや?って方は、以下内容🔽を読んでもらえれば、全て分かると思います 笑
幼少期〜中学生時代 : 交友関係に恵まれ幸せに暮らした日々
私は、岡山の田舎のごく一般的な家庭に生まれました。
やりたいことはなんでもやらせてくれる優しい父。
人としての在り方を厳しく教えてくれる愛情溢れる母親。
そして妹が二人。
両親がどちらも銀行員で、母親はパートで働いていました。
世帯年収的には一般家庭より少し余裕があったかもしれません。
家族仲が良く、全員陽気な性格で毎日愉快に過ごしていました。
仕事や学校が終われば、家で団欒のひとときが始まります。
リビングでは毎日、吉本の新喜劇みたいな会話が繰り広げられていました。
今振り返っても、とても幸せな家庭で育ててもらってきたと感じますし、両親には本当に感謝しています。
昔から私は、生まれた瞬間から人懐っこかったと両親に言われてきました。
幼稚園生時から持ち前のコミュニケーション力を発揮し、気づいた時には園内の同級生全員と友達になっていたそうです。
小学生〜中学生時代の成績は、上の上。
地元が田舎なので中学校は1学年120人ぐらいでしたが、学内での成績は常にTOP3以上でした。
母親の『目の前のことに誠実に取り組む』という教えを守っていたのがよかったのか、勉強・スポーツともに、取り組んだことは一定の成果を出すようになっていきます。
人間関係も良好で良い友人に恵まれ、学業・部活動共に打ち込み、特に中学生時は周りから一目置かれる存在となっていました。
相手の気持ちを読み取りつつ、意見を集約する機会が多かったこともあり、
人とコミュニケーションを取り、意見を一つの形にまとめ上げていく
そんなスキルを自然と身につけることができたのかなと感じています。
そして受験を意識するようになった頃、私は県内トップクラスの公立高校への進学を希望するようになります。
学力は県内トップクラス、英語は突出して県内No.1。
公立の普通科の高校でしたが、文科省から指定を受けて英語教育に注力していて、帰国子女や欧米からの留学生もおり、非常に魅力的に見えたのを覚えています。
また当時私の夢が、『外交官になって世界をリードし、世の中を平和にすること』だったこともあり、その為には英語力を磨く必要があると幼いながらに感じていました。
今思い返すとなかなかレベルの高い夢を抱いていたなと思います 笑
そして必死に受験勉強した結果、ついに私は第一志望の高校に合格することになります。
行きたかった高校にも合格し、一人胸躍らせていましたが、ここから挫折を味わい、苦しい3年間を過ごすことになるとは思ってもいませんでした。
高校生〜大学生 : 人生初めての挫折と夢の達成に努力を重ねた日々
高校の生活は、今思い出しても気分が悪くなるほど辛い時間でした。
個人的にも行きたかった高校で、入学時は期待に胸を膨らませていました。
ただ学校生活が始まると、私は厳しい現実を突きつけられることになります。
勉強は周りが優秀過ぎ、私の成績は常に平均以下。
得意だった英語も振るわず、上位3割に食い込むのがやっとでした。
勉強だけならいいものの、同級生とは驚くほど馬が合わず、遂に私は学校で孤立してしまいます。
どうすればよいかも分からず、ただ一人でもがき苦しむ日々。
この時期が、私にとっては人生で一番辛い時期だったように思います。
ただ一人だけ、当時、常に私に親身に向き合ってくださった方がいました。
担任でもなく、違うクラスの担任である、英語担当の先生です。
この方との出会いが、後に私を大きく変えていくことになります。
担任ではなかったですが、意欲的に授業に取り組む姿を可愛く思っていただけたのか、プライベートの悩みも乗ってくださり、私にとっては親のような存在になりました 笑
ある日、私は先生から提案を受けることになります。
内容は、希望者で行く語学留学でした。
私は二つ返事で参加を決めることになります。
当時若干15歳、海外渡航経験なし。
行動範囲は家〜高校の通学経路のみ。
昔から海外に留学することが夢だった私は両親に懇願し、ついに人生初の海外留学を経験することになります。
向かった先はカナダ西海岸のビクトリアという小さい島でした。
現地でホームステイしながら学校で学んだ日々は、今でもかけがえのない経験です。
見るもの聞くこと全て初めての経験で刺激的でしたが、
特に『多様性を受け入れ、称賛する』風土に私は強く共感し、
今後の自分の在り方を考える上で大きく影響することになります。
留学後は英語力がメキメキと向上し、学内でも上位2%に入るほどになっていきます。
ただ他教科で失敗し、私は滑り止めでしか受からなかった大学に通うことになります。
大学生活は非常によい友人にも恵まれ、何不自由なく毎日生活を送っていました。
ただ、ここで語学留学時の記憶が蘇り、私に火を付けることになります。
『もう一度留学し、現地の大学生と肩を並べて学びたい』
目標を達成するため、私は全ての時間を語学学習とアルバイトに費やしました。
学内選抜通過者のみ留学に行ける制度で、無事合格。
猛烈に頑張った甲斐もあり、19歳で人生2回目の留学を経験することになります。
単身カナダへ乗り込み、私は日本人が10人もいない街で過ごし始めます。
今回は、現地の大学生と同じ環境で講義を受ける、かなりハードな環境。
学習量&レベル、ともに日本とは雲泥の差があり、毎回授業についていくのに必死でした。
毎日7時〜22時ぐらいまで勉強し、10〜12時間ぐらい缶詰になってやっていました。
大学のカフェの隣でよく勉強していましたが、カフェの営業時間が終わると、見かねた店員が、売れ残ったベーグルをよく持ってきてくれていました 笑
冬のシーズンに勉強を終え、家に帰ろうと外に出た瞬間、マイナス25度の冷気で鼻毛が凍ったのもいい想い出です 笑
1年間、とにかく必死に勉強し、多くの人と交流することを意識して生活しました。
語学力の向上はもちろん、バックグラウンドの異なる友人が数多くでき、互いの考えを語り合い、称賛し、非常に貴重な時間を過ごすことができました。
帰国後、試しに受けたTOEICテストで990点満点を取得。
留学後は、
『海外と繋がりのある企業で働きたい』
『多様性があるビジネスを展開している企業で働きたい』
という想いに駆られ必死に就職活動に取り組みました。
そうして無事に内定を得た私は、海外にビジネスを展開する商社に入社することになります。
また、海外のクライアントと仕事がしたかった私は、海外営業職にステップアップしやすい部署への配属を志望しました。
新社会人 : 地獄の始まりと叩き潰された自尊心
理想とする会社に入社したものの、蓋を開けてみると、そこは体質の古い軍隊のようなブラック企業でした。
入社初月から残業時間が月140時間を超え、罵声を浴びせられ、殴られ蹴られ、家に帰れず段ボールを敷いて寝る毎日。
持ち前の根性で耐え忍んで働いていましたが、1年も経たないうちに、私はうつ病寸前まで疲弊してしまいます。
ここで、追い討ちをかけるように辛い出来事が続きます。
留学時代から遠距離恋愛をしていた彼女から突然別れの連絡があり、婚約破棄。
ついに精神面・体力面に限界がきた私は、東京を飛び出し、実家の岡山に帰ってしまいます。
実家に向かう新幹線の中、自分の無力さと不甲斐なさに落胆し、3時間の乗車時間、ずっと泣きながら帰ったのを今でも覚えています。
実家で療養する中、少し冷静になれた私は改めて認識することになります。
自分の好きなことではなくて、自分が得意なことで勝負しないと生き残っていけないかもしれない。
あと、こんなに働いていたら身体がもたないし、家族との時間が取れない。
自分が得意なことで戦っていくしかない。
そう決めた23歳となりました。
23歳〜26歳 : 仕事が充実する中、自分のキャリアを見直す日々
23歳になり、私は自分が得意な領域で戦っていくことを決めました。
まもなくメーカーの海外営業職に転職し、働き始めます。
入社当時は神戸で働いていたのですが、1年もしないうちに東京への異動が言い渡されます。
新卒時以来の東京。
新卒時の経験がトラウマになっていたこともあり、若干不安な気持ちで向かったことを覚えています。
ただ、私の不安はいい意味で外れることになります。
面倒見の良い先輩社員、私生活含め、プライベート面もケアしてくださる先輩社員の方々。
仕事はハードでしたが、クライアント様や社内メンバーにも恵まれ、楽しみながら、毎日一心不乱に働きました。
特に海外のクライアントと商談し、夜中まで交渉した経験は今も自分の財産となっています。
相手の考えを汲み取り、同じ方向を向いて協力できるようにまとめ上げる。
自分がしたいと思っていたことができて、本当に仕事が楽しかったです。
毎日目の前の目標を達成することに必死になって過ごしていると、いつの間にか私は27歳、アラサーになっていました。
30歳という節目が近づいてくる中、私は次のように悩み始めます。
このまま営業としてレベルアップしていくのか、
新しいことにチャレンジして自分の市場価値を上げていくのか、
悩み続けた結果、自分にとって大事なことが明確になりました。
- スキルアップして自分の市場価値を上げ、大きく稼いでいきたい
- 売上を上げる仕組みを学びたい
- 時間や場所の制約を受けることなく働きたい
- 将来的にフリーランスや個人事業主になり、チームで働きたい
営業としては、これまでずっと売上を作ってきました。
ただ、今度は売上を作る『仕組み』を学び、クライアント様の力になりたい。
マーケティングに興味を持った私は、体系的に学べる機会がないか毎日調べていました。
そんな中一つのWeb広告が私の目に飛び込んできます。
某大手企業が運営するWeb広告のスクール。受講費用は50万円。
スクールの内容は、広告運用の基礎を学び、広告代理店に転職するものでした。
このスクールとの出会いが、後に私がマーケターを目指すきっかけになります。
すぐにスクールに申し込んだ私は、マーケティングの面白さにのめり込みます。
平日は5時間、休日は17時間、寝る間も惜しんで学習しました。
努力が実り転職に成功した私は、マーケティングの世界に足を踏み入れることになります。
27歳〜29歳 : WEBマーケティング企業で仕事に打ち込む日々
私は、インフルエンサーマーケティングを軸に事業展開をしている会社に入社しました。
ちょうどInstagram事業が伸びていたタイミングだったこともあり、私はインスタグラマーのマネジメントに取り組むことになります。
主なミッションは、アフィリエイト投稿のコンサルティングを行い、本人が希望する金額までマネタイズさせることでした。
私が担当するのは、一般のOL、主婦の方が多く、インスタ運用を通して金銭的な不安を解消したい方がほとんどでした。
良くも悪くも、私のアドバイス1つでご本人の収入が大きく変わるシビアな環境。
私がマネジメントする方は、インスタ一本で生計を立てている方が多く、必ずより良い状態にさせると心に決め、仕事に取り組みました。
固い気持ちを胸にスタートしましたが、最初はマイナスからのスタートでした。
インフルエンサーへの連絡がまともにできておらず、完全に信頼が失われている状態。
半年間とにかく親身に対応し、自分が目の前の人の人生を背負う覚悟で取り組みます。
徐々に私の想いがインフルエンサーにも届き、固い信頼関係を築くことに成功します。
仕事に没頭する中、私は幼少期から大切にしていた価値観に改めて触れることになります。
『多様性を受け入れ、称賛する』
インフルエンサーが自分の世界観を発信し、発信内容に共感するユーザーと関係を築き、win-winになっていくスタンスが好きでした。
事業の方向性が私の想いと合致していたこともあり、時間を惜しむことなく、とにかく目の前の人の人生をより良くするために必死に働きました。
そして2年の月日が経ち、成果がマネタイズ金額にも反映されるようになってきます。
なんと担当する200名の中、20名以上が月100万円以上稼げるようになっていました。
収入が増えたことで、多くの方から感謝の声をいただくようになります。
✅人生の選択肢が増え、自分が本当にやりたいことができるようになった。
✅子供ができ、お金がかかる中、生活費の心配をすることなく過ごせるようになった。
✅ビジネスに魅力を感じ、もっと大きいことをやりたいと思い、法人化した。
関わる人がどんどん豊かになっていく姿を見て嬉しく感じる中、私はWebマーケティングに確信を感じ、次のように考えていきます。
Webマーケティングのスキルを磨けば、価値ある情報を発信することで、関わる方の人生をより良くしてくことができるかもしれない。
自分が経験したのは一部のマーケティング施策だけなので、様々なスキルを身に付けることで、より多くの人の人生をより良くしたい。
そんな想いを胸に充実した生活を送る中、私はとある企業と出会います。
その企業は、中小企業・個人事業主向けにSaas系ツールを販売する会社でした。
これなら、自分のスキルと掛け合わせて市場価値を上げ、より多くの人を豊かにするお手伝いができるかもしれない。
そう感じた私は情報収集をし始めます。
ただタイミングは重なるもので、ここから様々な出来事が私に襲い掛かります。
結婚を考えていた彼女から振られ、人生二度目の婚約破棄。
父方の祖父母が亡くなり、父親も糖尿病が悪化して入退院を繰り返すように。
母方の祖父母も体調が悪化し、母も介護で遠方に通う中、段々疲弊した状態に。
長男で、二人の妹がいる私は自分なりに責任を感じ、自分の近くにいる人を幸せにするのが先決だと考えるようになります。
ただ、近くにいる人を幸せにするには、まずは自分自身を満たす必要がある。
会社員の収入では身の回りの人を幸せにすることも、自分自身を満たすことも難しい。
何か方法はないかと考えましたが、考えに考えた結果、次の結論に至りました。
『独立するしかない』
29歳の誕生日、そう自分に誓いました。
30歳〜 : 独立準備と新生活のスタート
結果として、私はSaas系ツールを販売する会社に転職することになります。
6年過ごした東京を去り、関西に戻ることに。
独立準備と転職先の仕事が同時にスタートし、また慌ただしい生活がスタートします。
独立準備を進めるにもある程度資金が必要だったので、副業で資金を貯め始めます。
取り組む期間を決め、会社以外の時間を全て副業に注ぎ込みました。
土日祝の休みは全て働き、230連勤した後、資金を確保。
そして、Webマーケティングの基礎力・総合力を身につけるため、私は60万円を払い、スクールに入ることになります。
今後の取り組みについては別記事にまとめましたので、合わせてご覧ください。
『多様性を受け入れ、称賛する世界を広げたい』
『関わる方の人生をより良くしていきたい』
今はこんな想いで毎日情報発信に取り組んでいます。
- 私の想いに共感いただける方
- 今後私がどう変化していくか気になる方
もしご興味お持ちいただけるようでしたら、今後も本ブログを見に遊びにきていただけると嬉しいです。
最後に一言だけお伝えすると、、、
30代にもなると、色々と現実が見えてきて、以前ほど意欲的に物事に取り組むのが難しい方も多いんじゃないかと思います。
実際、私も20代の時の自分を振り返ると、変化を感じます。
ただ同時に、
まだまだ頑張りたい!、挑戦したい!
というお気持ちの方もいらっしゃるかと思います。
『変わりたい』
『人生やり直したい』
『自信を取り戻したい』
『より多くの人に役立つ人材になりたい』
今回、私が挑戦していく姿をブログを通して皆さんにお伝えしていきます。
多少荒削りな面もあるとは思いますが、全力で、正面からぶつかっていく姿をお見せしますので、ぜひご覧ください。
私が発信することが、少しでも皆さんにとってプラスになれば嬉しいです。
最後に私の恩師の言葉をもって、自己紹介を終わらせていただければと思います。
『人は、いつからでも、どこからでも良くなれる。』
お忙しい中最後までお読みいただきありがとうございました。
宗藤 広大